「10年以上住んでいたのだから、退去時の修繕費は入居者に請求できないのでしょうか」
長期入居者が退去した際、このような疑問を持つオーナー様は少なくありません。室内を見ると、クロスの汚れや床の傷、設備の劣化などが目立ち、次の募集に向けて大がかりな工事が必要になることもあります。
一方で、入居者からは「長く住んでいたので経年劣化ではないか」「クロスは6年で価値がなくなると聞いた」と主張される場合があります。
結論からいうと、**長く住んでいたからといって、入居者に一切請求できなくなるわけではありません。**ただし、入居期間が長くなるほど建物や設備の価値は下がるため、入居者に請求できる金額が少なくなるケースはあります。
原状回復では、まず「入居者に責任がある損傷かどうか」を確認し、そのうえで「経過年数を考慮すると、どの程度の金額を負担してもらうのが適切か」を判断することが重要です。
原状回復は「入居時の状態に戻すこと」ではない
原状回復という言葉から、退去時には部屋を入居時と同じ状態まで戻してもらえると考えがちです。しかし、賃貸住宅における原状回復は、単純に新品同様の状態へ戻すことではありません。
国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」では、原状回復を、入居者の故意・過失や善管注意義務違反、通常の使用を超える使い方によって発生した損傷などを復旧することとしています。
通常の生活によって自然に発生する汚れや傷み、時間の経過による設備の劣化については、原則としてオーナー側が負担するものと整理されています。民法でも、通常の使用による損耗や経年変化については、入居者が原状回復義務を負わないという考え方が明文化されています。
つまり、退去後に必要となる工事費のすべてを、そのまま入居者へ請求できるわけではありません。
経年劣化とは
経年劣化とは、時間の経過によって建物や設備の品質、機能、価値が自然に低下することです。
例えば、次のような状態が該当します。
- 日光によるクロスや床の変色
- 設備や建具の自然な劣化
- 畳やフローリングの日焼け
- 古くなった給湯器やエアコンの性能低下
- 長期間使用したことによる設備の摩耗
入居者が丁寧に使用していたとしても、建物や設備は少しずつ古くなります。そのため、経年劣化による修繕費は、原則としてオーナー側の負担になります。
通常損耗とは
通常損耗とは、一般的な生活をしていれば発生する可能性がある傷や汚れです。
例えば、家具を置いていたことによる床やカーペットのへこみ、冷蔵庫の後ろに発生する電気焼け、画鋲やピンによる小さな穴などが挙げられます。
こうした損耗は、賃貸住宅を貸す以上、ある程度は発生することが予想されます。国土交通省のガイドラインでは、経年変化や通常損耗の修繕費用は、賃貸借契約期間中の賃料によってカバーされてきたものと考え、原則としてオーナー側が負担するとしています。
入居者の故意・過失による損傷とは
一方で、通常の生活では発生しにくい損傷については、入居者に原状回復義務が生じる可能性があります。
具体的には、次のようなケースです。
- 家具を移動する際につけた大きな床の傷
- 子どもの落書きによるクロスの汚損
- 室内喫煙によるヤニ汚れや臭い
- ペットによる柱や床の傷、臭い
- 水漏れを放置したことで広がったカビや腐食
- 重量物を設置するために開けた大きなくぎ穴
- 清掃をほとんど行わなかったことによる著しい油汚れ
このような場合は、入居期間が長かったとしても、入居者の負担が直ちになくなるわけではありません。
長く住むほど入居者の負担割合は小さくなる
原状回復では、「誰に責任があるか」だけでなく、損傷した部分に退去時点でどの程度の価値が残っていたかも考慮します。
例えば、新しく張り替えたばかりのクロスを入居者が落書きで汚してしまった場合と、張り替えてから10年以上経過したクロスを汚した場合では、同じ張り替え費用を請求することが必ずしも公平とはいえません。
古いクロスには、新品と同じだけの価値が残っていないためです。
国土交通省のガイドラインでは、入居者に原状回復義務がある場合でも、修繕費の全額を当然に負担してもらうのではなく、建物や設備の経過年数を考慮し、年数が長いほど入居者の負担割合を減少させる考え方を示しています。
ここで大切なのは、次の2段階で考えることです。
- 入居者に責任のある損傷かどうか
- 経過年数を考慮した場合、いくら負担してもらうのが適切か
長期入居だから請求できないのではなく、長期入居によって請求できる金額が調整されると考えると分かりやすいでしょう。

「クロスは6年で価値がゼロ」は正しいのか
原状回復の話でよく聞かれるのが、「クロスは6年経過すると価値がゼロになる」という説明です。
国土交通省のガイドラインでは、壁や天井のクロスについて、6年で残存価値が1円になるように入居者の負担割合を算定する考え方が示されています。
例えば、新品のクロスを入居者が故意や過失で汚してしまった場合、入居から間もなければ、入居者の負担割合は比較的大きくなります。
一方、張り替えから6年以上経過している場合、クロスそのものの価値は非常に低く評価されるため、材料費に相当する部分について入居者へ高額な請求をすることは難しくなります。
ただし、ここで注意したいのは、6年経過すれば、どのような損傷を与えても一切負担しなくてよいという意味ではないことです。
ガイドラインでも、耐用年数を超えた設備や内装材であっても、本来は引き続き使用できたものを入居者の故意や過失によって使用できない状態にした場合、復旧に必要な工事費や人件費などが入居者負担になることがあるとしています。
例えば、8年間使用したクロスに大きな落書きがあり、そのままでは次の入居者へ貸せない場合、クロスの材料価値は低くても、落書きを消すための作業費などについて負担を求められる可能性があります。
「6年経過したから必ず0円」と機械的に判断するのではなく、損傷の原因、程度、補修方法、実際に必要となる費用を確認することが重要です。
部位によって経過年数の考え方は異なる
すべての設備や内装材に、同じように6年という基準が使われるわけではありません。部位や修繕方法によって、経過年数の考え方は異なります。
クロスやカーペット
壁や天井のクロス、カーペット、クッションフロアなどは、一定の年数が経過すると価値が下がるものとして扱われます。
クロスについて入居者に責任のある傷や汚れがある場合でも、原則として損傷した部分を中心に負担範囲を検討します。最低限の施工単位の都合から、損傷箇所を含む壁一面分まで負担対象とすることが考えられますが、単なる色合わせや模様合わせのために部屋全体を張り替える費用まで、当然に入居者へ請求できるとは限りません。
ただし、室内喫煙により部屋全体のクロスにヤニ汚れや臭いが付着している場合は、その部屋全体のクリーニング費用や張り替え費用が負担対象となる可能性があります。
フローリング
フローリングの部分補修については、クロスと同じように単純な経過年数を当てはめることが適切でない場合があります。
例えば、入居者が家具を引きずって床の一部に深い傷をつけた場合、原則として必要な部分補修費用を検討します。国土交通省のガイドラインでは、フローリングの部分補修については、経過年数を考慮することになじまないとの考え方が示されています。
一方、部屋全体に損傷が広がり、フローリング全体を張り替える場合には、建物の耐用年数などをもとに負担割合を調整する考え方があります。
傷が一か所あるからといって、部屋全体の張り替え費用をそのまま請求するのではなく、部分補修が可能か、全体張り替えが本当に必要かを確認することが大切です。
畳・襖・障子
畳表や襖紙、障子紙などは、消耗品に近い性質があり、クロスのように経過年数による負担割合を計算しない場合があります。
ただし、通常使用による日焼けや自然な変色であればオーナー負担です。入居者の不注意で破損した場合などに、必要な施工単位をもとに負担を検討します。
畳であれば原則1枚単位、襖であれば原則1枚単位など、実際の損傷部分に応じて判断します。色を統一するためにすべて交換する場合でも、その全額を入居者へ請求できるとは限りません。
エアコンや給湯設備
エアコン、給湯器、インターホン、洗面台などの設備についても、使用年数に応じて価値が下がります。
古い設備が通常使用によって故障したのであれば、原則としてオーナー側で交換や修理を行います。
一方、入居者が設備を乱暴に扱って破損した場合や、異常を認識しながら使用を続けて損傷を拡大させた場合は、入居者に負担を求められる可能性があります。ただし、新品への交換費用を全額請求するのではなく、設備の使用年数や残存価値を考慮する必要があります。
長期入居者の退去で起こりやすいケース
10年間住んだ部屋のクロスが全体的に黄ばんでいる
日照や通常の生活による変色であれば、経年劣化または通常損耗としてオーナー負担になる可能性が高いでしょう。
次の入居者を募集するためにクロスを張り替える場合も、その工事は物件の商品価値を回復させるためのリフォームとして、オーナー側で負担することが基本です。
ただし、喫煙によるヤニ汚れや強い臭いが部屋全体に残っている場合は、通常損耗を超えるものとして、入居者負担を検討できる場合があります。
長期間放置されたカビが壁の内部まで広がっている
結露や建物の構造上の問題によって自然にカビが発生したのであれば、オーナー側の負担となる可能性があります。
一方で、入居者が水漏れや結露を認識していたにもかかわらず、清掃、換気、連絡などを行わず、損傷を拡大させた場合は、善管注意義務違反として負担を求められることがあります。
この場合も、カビが発生したという結果だけで判断せず、発生原因や入居者からの連絡履歴、建物側の不具合の有無などを確認する必要があります。
12年間使用した設備を入居者が破損した
設備が古く、通常使用でも交換時期に達していたのであれば、交換費用の大部分はオーナー負担となる可能性があります。
しかし、古くても問題なく使用できていた設備を入居者が故意に壊した場合まで、責任がなくなるわけではありません。
設備の残存価値に加えて、修理で対応できたのか、交換以外の方法がなかったのか、工事費や作業費をどのように分けるのかを検討します。

特約があればすべて入居者負担にできるわけではない
賃貸借契約書には、「退去時のハウスクリーニング費用は入居者負担」「畳や襖の交換費用は入居者負担」などの特約が設けられていることがあります。
特約が明確に合意されている場合は、その内容が原状回復費用の判断に影響します。しかし、契約書に記載してあれば、どのような内容でも必ず有効になるわけではありません。
国土交通省のガイドラインでは、通常の原状回復義務を超える負担を入居者に求める特約について、必要性や合理性があり、入居者が内容を認識したうえで、負担する意思を示していることなどが必要とされています。
「退去時の費用はすべて入居者負担」といった範囲が不明確な条項や、具体的な金額、対象、負担内容が分かりにくい特約は、トラブルにつながりやすくなります。
特約を設ける場合は、契約書に記載するだけでなく、対象となる費用や金額、計算方法などを具体的に説明することが重要です。
オーナーが退去時に確認すべき5つのポイント
長期入居者の退去時には、見た目の古さだけで費用負担を決めず、次の順番で確認しましょう。
1.損傷の原因を確認する
経年劣化なのか、通常損耗なのか、入居者の故意・過失なのかを整理します。
水漏れやカビなどは、建物設備の不具合が原因となっている場合もあるため、表面的な状態だけで判断しないことが大切です。
2.契約書と特約を確認する
ハウスクリーニング、エアコンクリーニング、畳、鍵交換などについて、契約書に具体的な特約があるか確認します。
特約の内容だけでなく、契約時にどのような説明を行ったかも重要です。
3.内装材や設備の交換時期を確認する
クロスや床、設備をいつ交換したのかが分からなければ、適正な負担割合を計算しにくくなります。
原状回復工事を行った際には、工事日、施工箇所、使用した材料、費用などを記録しておきましょう。
4.補修範囲を必要最小限にする
一部分の傷で部屋全体を交換するなど、実際の損傷箇所を大きく超える工事費を請求すると、入居者とのトラブルになりやすくなります。
部分補修が可能か、最低施工単位はどこまでかを施工会社へ確認することが重要です。
5.見積書と精算内容を分かりやすくする
「原状回復工事一式」と記載するだけでは、入居者は負担内容を確認できません。
施工箇所、数量、単価、入居者負担割合、オーナー負担額を分け、なぜその金額になるのかを説明できる状態にしておきましょう。
長期入居はオーナーにとって大きなメリットでもある
長期入居者が退去すると、クロスや床、設備などをまとめて交換しなければならず、一時的に大きな費用が発生する場合があります。
しかし、長期間入居してもらえたことで、その間の空室損失、募集費用、仲介会社への費用、短期間で繰り返す原状回復費などを抑えられたという側面もあります。
退去時の工事費だけを見るのではなく、入居期間全体で得られた収益と維持費を含めて考えることが重要です。
また、長期入居後の退去は、物件を今後どのように運用するかを見直す機会でもあります。すべてを元の仕様に戻すだけでなく、募集条件や周辺の競合物件を確認し、設備更新や内装の変更を行うことで、家賃や入居率の改善につながることもあります。

まとめ
長く住んだ入居者だからといって、原状回復費を一切請求できないわけではありません。
入居者の故意・過失や管理不足による損傷であれば、入居期間にかかわらず原状回復義務が生じる可能性があります。ただし、クロスや設備などは時間の経過によって価値が低下するため、入居者へ請求する金額については経過年数を考慮する必要があります。
重要なのは、「長く住んでいたかどうか」だけで判断するのではなく、損傷の原因、契約内容、交換履歴、残存価値、補修範囲を一つずつ確認することです。
原状回復費の判断を誤ると、入居者との精算トラブルにつながるだけでなく、工事の遅れによって次の募集開始が遅くなることもあります。
長期入居後の退去や、経年劣化と入居者負担の区分で判断に迷う場合は、原状回復の実務に詳しい管理会社や専門家へ相談し、根拠のある精算と、次の募集を見据えた工事内容を検討することをおすすめします。
